プロフィール

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プロフィール

1973年4月26日生まれ
兵庫県上郡町出身 県立上郡高校卒
元JR東海社員
2007年姫路市議会議員選挙初当選
経済企業委員会副委員長 総務委員会副委員長を歴任
市議2期を経て、2015年兵庫県議選初当選

2023年4月県議選で落選

生い立ち

 1973年兵庫県明石市生まれ。明石市と神戸市垂水区をまたぐ明舞団地で小学5年生までを過ごしました。明舞団地は1960年代に建設された超巨大公営団地で、当時は約1万1千世帯が居住していました。今では高齢化が進みひっそりとした団地となっていますが、私が住んでいた当時は、窓を開ければ赤ん坊の泣き声、外に出れば三輪車の子どもが走り回っている、公園に行けばどこからボールが飛んで来るか分からない、そんな活気溢れる公営団地でした。

 小学5年生の時、入江家念願のマイホームを購入し上郡町に引っ越しました。父は国鉄運転士だったのですが、後で聞いた話によると、電車から見える上郡の桜が美しかったということだけで上郡への引っ越しを決めたとのこと・・・です。小学生時代の遊び場は上郡町を流れる清流千種川です。釣りや泳ぎばっかりをして遊び回っていました。小学5年生の時は友人と2人で上郡から赤穂の海までゴムボートで川下りをしたことも思い出の一つです。

 中学・高校は地元の上郡中、上郡高へ進学し、中学、高校時代は野球部に所属しました。真夏の練習の厳しさは今でも忘れられません。真夏の練習には冷たいお茶の用意はされていたものの、練習中に飲むことは許されていませんでした。たまりかねてこっそり校舎の水道水を飲みに行く者もいましたが、顧問の先生や先輩に見つかったらボコボコ(当時はそういう指導だったのかなぁ)。ある者は千種川に打ち込んだボールを拾いに行くふりをして川の水を飲むという荒業を考え出した者もいました・・。厳しい練習のおかげで今の丈夫な体ができたと大変感謝しています。

就職、退職、そして日本共産党に入党

 高校卒業後、JRに就職しました。勤務地は新大阪にあり、寮が尼崎にあったため尼崎の寮に入りました。今から思えば、この会社での経験が私を日本共産党に入党させる大きなきっかけとなりました。

 JRには複数の労働組合があり、新入社員は入社早々、労働組合からの勧誘攻めに会います。そうは言っても、何も分からない新入社員は職場の上司が勧める労働組合(いわゆる御用組合)に入ります。私もその一人でした。しかし、どうもおかしい・・・。上司が勧め私が入った多数派労働組合は会社には何も言わない会社いいなりの労組でした。会社側から敵視されている少数派労働組合は労働者の為にはっきりと会社側に意見を言い、労働者のための労働運動をしています。しかし、この少数派労働組合に所属していると徹底的に会社からの嫌がらせを受けます。出世はまずない、遠隔地配転は当たり前、多数派労組員ばかりの職場に配置転換させられ徹底的に少数派組合からの脱退工作を受けます。しかし、そんな嫌がらせにも屈することなく堂々と会社側に意見を言い、労働運動をする少数派労組の先輩達を、いつしか尊敬と憧れの眼で見るようになっていました。私の行動はいつの間にか先輩達を真似るようになり、会社側からも目をつけられる様になっていました。それならば少数派の組合に入り自らの立場をはっきりさせればいいのですが、少数派労組に入れば本格的な嫌がらせが始まる事を確信していた私に少数派労組に移る勇気はありませんでした。

 そんな中途半端な状態にある時、上司から目をつけられていた私は些細な嫌がらせを受け、若気の至りなのか、かっこ良く見せようと思ったのか「いつでも辞めてやるわい!!」ってな感じで啖呵を切って会社を退職してしまいました。先輩達からは「会社を辞めずに組合に入って一緒に頑張ろう」などと言われて引き留められましたが、強がりも半分あり「一度言ったことは曲げられません・・・」とか何とか、かっこのいい事を言った記憶があります。周囲には威勢のいい辞め方のように思われていたようですが、自分自身の中では少数派労組に入る勇気がなく「逃げ出したな」ということがはっきりとわかっていました。しばらくは自分の弱さに自己嫌悪に陥りました。

 突然会社を辞めたので親にも言えず、寮は追い出される、仕事は決まっていない、金はない・・。とにかく日銭を稼ぐためと行ったところが大阪市西成区。日雇い労働者の街です。仕事は直ぐに見つかったものの、この仕事がきついの何の・・・、職種は線路工夫。終電が通過した夜中1時頃からレール、枕木、バラスト(採石)等の交換を始め始発電車が通過する午前5時頃までには終えなくてはなりません。工事用照明が夜中のレールを明々と照らす光景は今でも目に焼き付いています。初日でスコップを持つ手には血マメが5~6個、朝起きても直ぐには手が開きません、お湯を掛けながら手をゆっくりと開く。朝は10時頃から始まり、線路脇の草刈りが主な仕事、夕方4時ごろまでに終え、再び夜中11時頃に出勤。これが一日のサイクルでした。法など全く無縁の過酷な労働でした。

 そんな時、大阪の街中で目にしたのが「しんぶん赤旗」のポスターでした。日本共産党といえば労働者の味方というイメージを何となくもっており、ポスターに書いてある連絡先に電話し「しんぶん赤旗」を購読する様になりました。「しんぶん赤旗」を通じて多くの労働者が闘っている事を知りました。また、共産党の人達との交流も広がり、共産党の書籍も食入る様に読むようになり、運動にもいつしか参加するようになりました。「働く人が主人公になる社会を作りたい」そういう強い思いを持つようになり特に誰からの強い勧めを受けた訳でもなく、ごくごく自然な流れの中で日本共産党に入党しました。

父に肝臓を提供

 私が30歳の時、父が肝臓癌で余命半年という宣告を受けました。医師からは、肝臓移植しか父の生存の道はないと言われ「移植する肝臓は若い肝臓の方がお父さんにとってもいいし、肝臓を提供する側も若いドナーの方が回復も確実に見込まれる」と言われました。母は将来のある息子に負担は掛けられないと言い、自らがドナーになる決意をしました。しかし、父や母の体の事を思えば私がドナーになる事が一番いいのは解っていました。

 「俺はまた逃げるのか・・・」と、JRを退職した時に逃げ出した嫌な自分を思い出しました。医師にドナーを告げる日、「私がドナーになります」。医師に告げました。母は突然の事だったので驚きましたが、ここで再び逃げてしまえば一生自分が嫌いになるという強い思いを家族に話し、理解してもらいました。

 移植手術は無事成功。しかし、2年後、癌細胞が全身の骨に転移しているのが見つかりました。医師にフイルムを見せられ黒い部分が癌細胞との説明を受けましたが、全身真っ黒のフイルムに涙が止まりませんでした。

 父は亡くなりましたが、私自身ドナーになった事に1mmの後悔もありません。亡くなった父には申し訳ないけれども、移植を決意し、父の余生の介護を家族一丸となって精一杯やりきった事に自分自身でも納得し大きく成長できた2年間だったと思っています。

市議会議員選挙に立候補

 「入江君、市会議員選挙に立候補しないか」

 突然の地区委員会からの要請でした。私に市会議員なんてとても出来るわけがない。一度は断ったものの、幾度となく地区委員会からの要請を受けました。私自身断り続けているものの、断っている理由が自分の中ではっきりしない。社会を変えたい、働く人が主人公となる社会を作りたい、この思いは私が共産党に入る以前から強く抱いていたもの。その舞台に立てる機会があるのに何故断り続けているのだろう・・・よくよく自分自身で考えて見ると、結局、共産党市会議員という重責、困難な道から逃げようとしている自分に気づきました。それに気づいた時、逃げない生き方を選んだ私にとって進む道は決まりました。

 選挙告知4カ月前の事でした。結果は2775票、次点とわずか60票差の最下位当選。周囲の後援会員さん、党員の皆さんの昼夜を問わずの大奮闘のおかげです。

私の抱負ー住民のために原点を貫いてー

 市議2期を経て、県会の議席を頂きました。

 議会へ送り出して頂いてから、多くのご要望、ご相談をお寄せいただき、議会にその声を届けてきました。

 私の政治活動の原点である「働く人が主人公になる社会」。父の闘病生活を通じて感じた「誰もが安心して受けられる医療・介護体制の充実」。「子ども達の笑顔がたくさん溢れる地域社会」。そんな県政を築いていくため頑張ります。

 そして何よりも、困難や壁にぶつかった時、不正や巨大な権力が立ちはだかった時、自分に負けない、逃げない生き方を貫いて行きたいと思っています。