ブログ

阪神淡路大震災から20年

 昨日17日で阪神淡路大震災から20年目を迎えました。震災で肉親を亡くされた遺族の方々に改めてお悔やみを申し上げます。大震災で肉親を亡くし住まいを奪われた人たちの傷は、いまだ癒やされていません。借り上げ復興公営住宅からの追い出し、災害援護資金の返済問題など、新たな問題が次つぎ起きています。この20年にも、新潟県中越や能登半島沖での地震や東日本大震災などが続きました。国民が安心して暮らせるよう、被災者に寄り添い支援を続けることが不可欠です。自然の災害は防げなくても、政治の力で被害を減らすことはできます。大震災から20年、被災者に寄り添い、被災者を中心にすえた政治がいよいよ求められます。
 20年前というと当時私は21歳、JR東海に在職中で尼崎杭瀬にある寮に入っていました。杭瀬寮は国鉄からJRに移行してから建設されたもので最新式の8階建ての豪華な寮でした。私の部屋は8階にありその部屋に入居するのも私が始めてといういわゆる新築部屋に入寮しました。杭瀬から西側には高層ビルなども少なく北西向きの私の部屋のベランダからは六甲山に沈む夕日まで綺麗によく見える部屋で、20年前の震災発生時は尼崎も揺れが激しく寝ていたベットが跳ね上がり頭上にあったエアコンを手で支えながら揺れに耐えていましたが、揺れている最中にベランダ窓から見える神戸方面は稲妻のような光がチカチカと光り、揺れの後はガスの臭いが街中を覆っていた事を記憶しています。
 私は当時、新大阪にある新幹線大阪保線所に勤めていました。震災時どのようにして職場まで出勤したのかは既に忘れてしまいましたが、随分と遅れて職場に到着した事を記憶しています。新幹線は当然停まっており、線路の保守点検が仕事である私は先輩らと線路内の巡回に出ましたが、レールは大きくねじ曲がり、宮原付近の高架が上下線のレールの間で真っ二つに裂け、バラスト(砕石)が裂けた高架の割れ目から下を通過する道路に大量に落下していました。もし、地震発生時間が営業時間内であれば大変な大惨事になっていた事を考えるとぞっとします・・。どのくらいで新幹線が動き出したのかも忘れてしまいましたが、普段は列車通過の摩擦で削れて光っているレールが列車が走らない事によって次第に錆ついていった事をよく記憶しています。
 つい先ほどHNK特集で阪神淡路大震災の特集で日本の活断層についての放映がされていましたが番組の締めくくりは現在の科学技術では「次の大地震はどこであるのか予測できるところまで手が届いていない」というものでした。原発の再稼動準備は九州電力川内原発で着々と進んでいます。火山密集地にある川内原発について安倍首相は「巨大噴火を数年前に予知して、予知した段階で原子炉を止め燃料棒を運び出す」と言っています。しかし、科学者からは「噴火を数年前に予知した例は世界でない」と言っています。また、川内原発で巨大地震が起きたときは20分でメルトダウンが起こり1時間半後には放射能が大気中に漏れると原子力規制委員会は指摘しています。日本共産党の志位委員長が「1時間半で住民を安全圏へ避難させる計画はできているのか?」という問いにもまともに答弁ができていません。巨大噴火は予知できるという新たな安全神話と避難計画もないまま原発の再稼動がされようとしています。世界有数の地震国・火山国であり活断層が無数にある日本で原発の安全性を科学的に証明する事など現在の科学技術ではありえない事だと、今日のNHK特集、阪神淡路大震災、そして東日本大震災からも改めて思います。

トラックバック

コメントはまだありません

コメントはまだありません。

コメント

コメント公開は承認制になっています。公開までに時間がかかることがあります。
内容によっては公開されないこともあります。

メールアドレスなどの個人情報は、お問い合せへの返信や、臨時のお知らせ・ご案内などにのみ使用いたします。また、ご意見・ご相談の内容は、HPや宣伝物において匿名でご紹介することがあります。あらかじめご了承ください。